南房総みかん狩りで満腹♪フォト1


南房総ミカン狩りで満腹♪1

【貴賓席の旅】のコース工程(東京湾アクアライン⇒三平農園でみかん狩り)

【貴賓席の旅】のコース工程(東京湾アクアライン⇒三平農園でみかん狩り)
【貴賓席の旅】のコース工程(東京湾アクアライン⇒三平農園でみかん狩り)

東京湾アクアラインから三平農場でミカン狩りへの移動映像1

【貴賓席の旅】全国旅行支援/ピアニシモⅢで行く「たてやま花しぶき」東京湾アクアライン「海ほたる」からミカン狩り会場の三平農園への移動の映像1です。

 車中ではバスガイドから以下のアナウンスがありました。

・地域限定クーポンの確認書。

・ミカン狩りの三平農場。

・横須賀市。

・千葉市。

・幕張メッセ。

・横須賀の軍港。

・江戸時代のフランス人技師、レオン・ベルニの大規模造船所。

・アメリカ海軍。

・海上自衛隊。

・基地の町。

・平和の尊さ。

・世界の戦争。

・ノリの養殖。

・チーバ君。

・木更津観覧車パーク(キサラピア)。

・三井アウトレットパーク。

・富士山。

・袖ヶ浦市。

・貝やノリの養殖。

。遠浅の海。

・埋め立て地

・工業地帯。

・袖ヶ浦の由来。

・ヤマトタケル

・東国遠征。

・房総半島。

・妃のオトタチバナヒメのミコト。

・東京ドイツ村。

・イルミネーション。

・木更津市。

・木更津の由来。

・太田山公園(恋の森)。


千葉県の旅行支援限定クーポンについて

「千葉とく旅キャンペーン」は、千葉県民および隣接県の方を対象として、宿泊を伴うツアーや宿泊商品の割引に加え、平日に宿泊された方にクーポン券をプレゼントする観光振興施策です。キャンペーン期間は、令和4年1月6日から3月10日まで。

 以下は、キャンペーンの概要です。

・優待内容

    ・宿泊を伴うツアー・宿泊商品の割引

        ・ ツアー代金・宿泊料金(税込)が10,000円以上の場合、5,000円割引

        ・ツアー代金・宿泊料金(税込)が6,000円以上10,000円未満の場合、3,000円割引

        ・同一宿泊施設での利用は、3連泊までとなります

        ・日帰り旅行は対象外です

    ・クーポン券のプレゼント

        ・平日(月曜日~金曜日)に宿泊した場合、1人1泊あたり2,000円分のクーポン券をプレゼント

        ・旅行期間中に利用可能

・キャンペーン期間

    ・令和4年1月6日(木曜日)~3月10日(木曜日)宿泊分(3月11日チェックアウト)まで

    ・期限前であっても、予算が無くなり次第終了します

・対象者

    ・千葉県及び隣接県(茨城県・埼玉県・神奈川県)の在住者

    ・東京都在住の方は今回は対象となりません

・感染拡大防止対策

    ・本キャンペーンを利用するためには、ワクチンを2回接種(2回目から14日以上経過)していること又はPCR検査等の結果が 

 陰性であることが必要です

    ・健康上の理由によりワクチン接種ができないため、予防接種済証等をお持ちでなく、PCR検査等の検査結果証明が必要とな

 る方については、県が開設する検査実施拠点で無料で検査を受けられます

 「千葉とく旅キャンペーン」は、千葉県民および隣接県の方を対象としています。つまり、千葉県、茨城県、埼玉県、神奈川県にお住まいの方が対象となります。他県からの参加はできません。


ミカン狩りで訪れた三平農場について

 三平農場は、千葉県南房総市にあるみかん農園です。期間中の10月下旬から12月下旬まで無休でみかん狩りが楽しめます。みかんは食べ放題で、木にいっぱいなったみかんを思う存分楽しむことができます。三平農場のみかんは、千葉県から認定された「ちばエコ農産物」で、農薬は千葉県の基準である値の半分以下で肥料は化学肥料と有機肥料半分ずつの、しっかりと検査されて千葉県から認定された、安心安全な「エコ」農産物です。三平農場は、バラエティー番組「ぴったんこカン・カン」などでも特集をされたほど人気なみかん農園なんです!

 三平農場の公式サイトによると、予約は不要で、期間中の10月下旬から12月下旬まで無休でみかん狩りが楽しめます。ただし、混雑時には入場制限がある場合があるため、事前に公式サイトやお問い合わせ先で確認することをおすすめします。

 三平農場は、みかん狩り以外にも、以下のようなアクティビティがあります。

  • 「手作りみかんジュース作り」、 みかんを絞って、自分でジュースを作ることができます。
  • 「手作りみかんジャム作り」みかんを使って、自分でジャムを作ることができます。

以上のアクティビティが楽しめます。

 三平農場のアクセス方法は以下の通りです。

  • 車でのアクセス

    ・東京方面からは、東京湾アクアラインを利用し、木更津ICから約30分。

     ・千葉方面からは、館山自動車道を利用し、富津鴨川ICから約30分。

  • 電車でのアクセスは、 JR内房線「安房鴨川駅」または「安房白浜駅」から、タクシーで約20分。

 三平農場でのみかん狩りには、以下のものを持参すると便利です。

  • 「帽子」、直射日光から頭部を守るために必要です。
  • 「マスク」、みかん狩り中は、他の人と密接に接触することが避けられないため、マスクを着用することをおすすめします。
  • 「手袋」、みかんの皮に含まれる成分が、手荒れを引き起こすことがあります。手袋を着用することで、手荒れを防ぐことができます。
  • 「靴」、みかん園内は、土や砂利で覆われているため、スニーカーや運動靴など、歩きやすい靴を履くことをおすすめします。
  • 「タオル」汗を拭くために必要です。
  • 「ビニール袋」、お持ち帰り用のみかんを入れるために必要です。

以上のものを持参することで、快適なみかん狩りが楽しめます。

 三平農場の営業時間は、9:00~15:00です。


ちばエコ農産物について

 「ちばエコ農産物」とは、千葉県が独自に認定した農産物の認証制度で、環境保全と食の安心・安全に配慮した農産物を指します¹. この制度では、化学合成農薬と化学肥料を通常の半分以下に減らして栽培された農産物が認定されます。また、生産者は、作業をしっかり記録し、栽培前と収穫前の2回の審査を受けます。さらに、現地確認も実施され、厳しい目で確認された農産物が出荷されます。


ミカン狩りについて

 ミカン狩りは、日本の秋の風物詩の一つで、家族や友人と一緒にミカン畑に出かけ、ミカンを収穫する体験を楽しむものです。ミカン狩りの歴史は古く、江戸時代には紀州みかんが主流でした。当時は種の無い温州みかんは避けられていましたが、明治時代になると、その食べやすさと玉の大きさが人気となり、生産が盛んになっていきました。現在では、温州みかんを中心に、全国各地でミカン狩りが行われています。


横須賀市について

 横須賀市は、神奈川県にある市です。市の公式ホームページによると、人口は約26万人で、三浦半島の北半分を占めています。市域の東側は東京湾、西側は相模湾に面しており、東京湾唯一の自然島である猿島も行政区域に含まれています。

 横須賀市の発展は、幕末の開国時に沿岸防備のための施設の建設及びフランス人技師ヴェルニーを招いて横須賀製鉄所の建設に着手したことから始まります。明治40年2月15日に市制施行以来、我が国最大の軍港都市として特異な発展を続けてきました。

 

 横須賀市の名前の由来については、鎌倉時代から見られる地名である「スカ(須賀)」が「砂州(砂処・州処)」を意味することから、横に長く伸びた砂州のことと考えられています。


猿島について

 猿島は、東京湾に浮かぶ唯一の自然島であり、湾内最大の無人島です。かつては軍の要塞として使われていましたが、現在では島内を自由に散策することができ、当時のままの姿で残された歴史遺産と、ありのままの自然が融合した、他に類を見ない独自の風景を楽しむことができます。

 猿島で楽しめるアクティビティは以下の通りです。

  • 国史跡散策
  • BBQ
  • 磯遊び

また、猿島探検ツアーも開催されており、島の歴史や自然を学びながら、島内を散策することができます。

 猿島へは、横須賀中央駅から徒歩10分の三笠公園桟橋から出発する船で行くことができます。三笠公園桟橋へは京急線横須賀中央駅から徒歩10分程度です。また、東京駅から横須賀中央駅まで約45分かかります。船は1日に数便運行しており、所要時間は約10分です。猿島への入場料と乗船料が必要です。


千葉市について

 千葉市は、千葉県の県庁所在地であり、関東地方に位置しています。人口は、2021年10月1日時点で約96万人。千葉市の公式サイトによると、市内には多数の公園や博物館、美術館、動物園、水族館などがあり、観光スポットとしても人気があります。

 千葉市の歴史については、縄文時代の初期からその源を発しており、都市としては、大治元年(1126年)千葉常重が猪鼻台に居館を築いたことに始まります。近代都市としての始まりは、明治6年(1873年)、木更津、印旛の2県が廃合され千葉県となり、県庁が千葉町に置かれたことにより、県内の政治・経済・文化の中心地、また交通の要衝として発展しました。大正10年(1921年)1月1日、市制施行により、千葉町から千葉市としてスタートしました。当時の市域は約15平方キロメートル、人口3万3千人であり、師範学校、医学校など多くの学校や病院が設置され、また鉄道聯隊、陸軍歩兵学校などの軍事施設もあり、医療の街、軍隊の街として栄え、着実な発展を続けてきましたが、昭和20年、2度の空襲により、中心市街地の約7割を焼失し、尊い人命と多くの貴重な都市施設を失いました。しかしながら、市民は力強く復興に立ち上がり、戦災復興事業に着手するとともに、将来に向けた新生を図るため、近代的工業都市を目指し、臨海部への主要産業の誘致や、千葉港の整備を進めるなど、消費都市から生産都市への転換を図りました。そして、臨海部の開発、大規模住宅団地の建設、内陸工業団地の造成、さらには、近隣町村との合併や埋立により、市域を拡大するとともに、快適な生活環境づくり、バランスのとれた都市づくりを進め、平成4年(1992年)4月1日には、全国12番目の政令指定都市に移行しました。

 千葉市の由来には、複数の説があります。一つは、縄文時代の初期からその源を発しており、都市としては、大治元年(1126年)千葉常重が猪鼻台に居館を築いたことに始まるというものです。もう一つの説は、千葉市の名前は、茅(ちがや)が生い茂る土地で「茅生(ちぶ)」と呼ばれ、転じて「ちば」になったとする説です。どちらの説も、千葉市の歴史に深く根ざした由来となっています。


茅について

 茅(かや)は、古くから屋根材や飼肥料などに利用されてきた、イネ科あるいはイネ科およびカヤツリグサ科の草本の総称である。茅は、細長い葉と茎を地上から立てる草本植物で、チガヤ、スゲ、ススキなどがその主要なものである。茅は、耐水性が高く、屋根を葺くのに好適な材料となり、明治期以前の日本では重要な屋根材として用いられた。現在でも、菅笠をはじめとする各種民芸品や、茅の輪などが茅を編んで作られている。

 「茅生」とは、一面にチガヤが生えている所を指します。また、「浅茅生」という言葉は、虫の音がしきりに響く、荒れはてた所にチガヤが生えている様子を表現した句として知られています。この言葉は、古くから日本の文学や歌舞伎などにも登場し、日本の文化に深く根ざしています。

 「浅茅生」とは、日本の古典文学である和歌の一つで、百人一首の中の第39番目の歌です。この歌は、参議等(さんぎひとし)という歌人によって詠まれたもので、以下のように歌われています。

   浅茅生の小野の篠原しのぶれど

           あまりてなどか人の恋しき

 この歌は、草木が生い茂る野原で、恋人と別れを惜しむ歌として知られています。また、「浅茅生」とは、一面に浅茅が生えている荒れた場所を指す言葉であり、この歌の中でも、草木が生い茂る野原が描かれています。この歌は、日本の古典文学の中でも、特に有名な歌の一つであり、多くの人々に愛されています。


千葉常重について

 千葉常重(ちば つねしげ)は、平安時代後期の下総国の武将であり、千葉氏の第2代当主です。千葉常重は、千葉常兼の子であり、千葉常胤の父でした。

 千葉常重は、千葉城を築いて拠点としました。また、鳥羽法皇に対して、千葉郡の中心地域を荘園として寄進し、後に千葉荘は八条院領に編入されて常重はその荘官となりました。

 千葉常重は、千葉氏の歴史において重要な役割を果たした人物であり、千葉市の歴史にも深く関わっています。


千葉氏について

 千葉氏は、桓武天皇の血を引く関東の名族で、平安時代後期から戦国期まで下総国(現在の千葉県北東部等)を支配していました。千葉氏は、千葉常重が大治元年(1126年)に猪鼻台に居館を築いたことに始まります。千葉氏は、千葉市の歴史に深く根ざした由来となっています。

  千葉氏は、平安時代後期から戦国期まで、下総国を中心に勢力を拡大し、多くの武将を輩出しました。千葉氏は、鎌倉時代には鎌倉幕府に仕え、室町時代には関東管領上杉氏に仕えました。戦国時代には、後北条氏に仕えましたが、豊臣秀吉による小田原征伐により、千葉氏は滅亡しました。

 千葉氏は、戦国時代に入ると、常陸国の佐竹氏、小弓公方足利義明や安房国の里見氏の侵攻を受けるようになりました。そして、北条氏康と姻戚関係を結ぶことで、後北条氏の支援をもとに所領を守りました。

 千葉氏内部においても、第26代当主を継いだ千葉親胤は、原親幹によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ千葉邦胤が家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続きました。1590年(天正18年)、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡しました。

 千葉氏は、戦国時代においても、多くの武将を輩出し、関東地方の歴史に深く関わっていました。


縄文時代について

 縄文時代は、日本列島における時代区分の一つで、旧石器時代の後に当たります。約1万年間続いた時代で、狩猟採集を中心とした生活をしていました。縄文時代には、土器や磨製石器の使用が始まり、定住化が進んでいきました。

 縄文時代と弥生時代は、日本の歴史上、非常に重要な二つの時代です。縄文時代は、約1万5000年から2300年前の約1万年の間続いた時代で、狩猟採集を中心とした生活をしていました。一方、弥生時代は、紀元前300年頃から紀元300年頃の約600年間といわれ、稲作を中心とした生活へと変化しています。

 縄文時代と弥生時代の違いは、以下のようにまとめられます。

| 比較項目          | 縄文時代                                           | 弥生時代                                                    |

| 生活スタイル     | 狩猟・採集・漁労による生活      | 稲作による農耕生活                                |

| 食事内容              | 魚介類・獣肉・野生の果実など | 米が主食                                                       |

| 道具の製作技術 | 装飾的で多様な形状の土器          | 実用性を重視した簡素な土器              |

| 住居の形状          | 竪穴式住居                                         | 掘立柱式住居                                              |

| 社会構造               | 小規模な集団での生活                  | 大規模な集落の形成と社会の階層化 | 

  縄文時代は、独特な文化と生活様式が形成され、縄文土器や土偶、石器などの芸術作品が生まれました。これらの作品は、縄文人の感性や技術力を物語っています。一方、弥生時代は、稲作の導入により、食料の安定供給が可能となり、人口が増加しました。また、集落生活により、人々の協力関係が強まり、社会の結束力が高まりました。しかし、階級差の発生や農作物への依存による生活の不安定さという、両面の特徴を持っていました。


幕張メッセについて

 幕張メッセは、千葉県千葉市美浜区にある日本国内第2位の規模を有する複合コンベンション施設です。国際展示場、国際会議場、幕張イベントホールの3つの施設で構成され、様々なジャンルのイベントが開催されています。1989年に開設され、第32回及び第40回BCS賞(建築業協会賞)、IAITAクォーターナリオ賞、第5回千葉県建築文化賞等を受賞しています。幕張メッセは、日本国内の優秀な建築作品として高く評価されています。


「BCS賞」について

 「BCS賞」は、日本国内の優秀な建築作品を表彰するものであり、一般社団法人日本建設業連合会が主催しています。竹中藤右衛門氏が発案し、1960年に創設されました。受賞対象は、日本国内に建築された建築物で、供用開始後1年以上を経過したもので、建築主、設計者、施工者の3者を表彰します。選考基準は、建築の事業企画、計画・設計、施工、環境及び建築物の運用・維持管理等に関する総合評価を旨としています。第32回及び第40回BCS賞(建築業協会賞)をはじめ、多くの賞を受賞している幕張メッセは、日本国内の優秀な建築作品として高く評価されています。


竹中藤右衛門について

 竹中藤右衛門氏は、明治から昭和期の建築設計・請負業者、実業家、政治家であり、竹中工務店の創業者です。竹中藤右衛門氏は、竹中工務店社長として、多くの建築物を手がけ、その中には幕張メッセも含まれています。竹中藤右衛門氏は、BCS賞(建築業協会賞)をはじめ、多くの賞を受賞しており、日本国内の優秀な建築作品として高く評価されています。


横須賀の軍港について

 横須賀の軍港は、アメリカ海軍施設(横須賀本港)と海上自衛隊の司令部(長浦港)が置かれた港で、海軍港として発展してきました。横須賀港は、多くの艦船を間近に見ることができる、日本で唯一のクルージングツアー「YOKOSUKA軍港めぐり」を毎日運航しています。このツアーでは、海上自衛隊の潜水艦や護衛艦、米海軍のイージス艦、空母、砕氷艦、潜水艦など、多彩な艦船を見ることができます。

 横須賀の軍港は、古くから海運の要衝であった横須賀に、ペリー来航後に造船所が建設されたことが始まりです。その後、明治17年に横須賀鎮守府が開設され、大日本帝国海軍の主要軍港の一つとなりました。横須賀港は、日露戦争や第二次世界大戦など、数多くの戦争において、日本の海軍力の拠点として重要な役割を果たしました。

 


アメリカ海軍施設(横須賀本港)について

 アメリカ海軍施設(横須賀本港)は、在日アメリカ海軍の基地であり、日本では米軍横須賀基地や横須賀基地と呼ばれることが多く、地元では「ベース」、アメリカ軍関係者などからは「横須賀ベース」と呼ばれています。


海上自衛隊の司令部について

 海上自衛隊の司令部は、海上自衛隊の指揮を執る組織です。長浦港にある海上自衛隊司令部は、横須賀基地の一部であり、海上自衛隊の主要な司令部の一つです。なお、長浦港は、横須賀港の一部であり、海面が穏やかな天然の良港です。


「YOKOSUKA軍港めぐり」について

 「YOKOSUKA軍港めぐり」では、海上自衛隊の潜水艦や護衛艦、米海軍のイージス艦、空母、砕氷艦、潜水艦など、多彩な艦船を見ることができます 。また、横須賀市内には、海軍博物館や戦艦「三笠」記念館など、歴史的な艦船を見学できる施設もあります。


潜水艦について

 潜水艦とは、水中航行可能な軍艦で、小型のものは潜水艇と呼ばれます。潜水艦は、水中を航行することができるため、敵の目をかいくぐり、奇襲攻撃や偵察活動などに使用されます。潜水艦には、海上自衛隊や米海軍など、多くの国々が保有しています。

  潜水艦の歴史は、17世紀にオランダ人のコルネリウス・ドレベルがイギリス海軍向けに発明した潜水艇が最初とされています。 その後、1776年にデヴィッド・ブッシュネルが開発したタートル潜水艇が登場し、実際に建造され実戦投入された最初の潜水艇となりました。19世紀には、フランス海軍のジムノートが最初の動力潜水艦として完成し、1888年には電気モーターで推進する最初の潜水艦であるフランス海軍のジムノートが完成しました。


護衛艦について

 護衛艦とは、海上自衛隊が保有する艦船の種別の一つで、敵の潜水艦、水上艦艇、航空機による脅威に対処する能力を備え、周辺海域の防衛や海上交通の安全確保に重要な役割を担う艦船です。


イージス艦について

 イージス艦とは、イージスシステムを搭載した艦艇の総称です。イージスシステムは、フェーズドアレイレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムにより、200を超える目標を追尾し、その中の10個以上の目標を同時攻撃する能力を持つ画期的なシステムです。イージス艦は、防空艦として開発されたものの、様々な任務に対応可能な汎用性を持つため、アメリカ海軍ではイージス艦のみで部隊を編成することもあります。

 イージスシステムは、アメリカ海軍によって開発された、防空戦闘を重視した艦載武器システムです。イージスシステムは、フェーズドアレイレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムにより、200を超える目標を追跡し、その中の10個以上の目標を同時攻撃する能力を持つ画期的なシステムです。イージスシステムを搭載した艦艇をイージス艦と呼びます。


空母について

 空母(航空母艦)は、航空機を多数搭載し、海上での航空基地の役割を果たす軍艦です。空母は、艦内に格納庫を有し、飛行甲板より艦載機(艦上機)を発艦または発着させることが可能な、海洋を移動する飛行場にして根拠地であります。空母は、第一次世界大戦で登場し、その当時は飛行機母艦の名称も使われました。現在、アメリカ海軍やフランス海軍など、多くの国々が保有しています。


砕氷艦について

 砕氷艦は、氷に覆われた海域を航行するために特別に設計された船のことです。砕氷艦には、海上自衛隊や米海軍など、多くの国々が保有しています。